(たかはしのだんやくこ)
場所・福崎町高橋〜西治
またまた正式名称、大阪陸軍航空補給廠姫路出張所。
鶉野と同じで、姫路じゃないのに姫路の名がつくココ、
福崎町史で存在を発見したときは、小躍りで現地に赴いたもんです。
何せ、福崎町史に掲載された地図には、
現存建物が3つもあるって書いてあるんですから!
当時物ってだけで涎ジュルジュルもんですが、防空壕まであるとか!
すぐさま仮病つかって出社をボイコットしたい位、興奮してました。
そもそも、ここは大阪の枚方で、1939年に弾薬庫が失火のせいで、派手に吹き飛んで、
死者94人、被災世帯数4425世帯という凄まじい被害を出した事から建設が始まりました。
一瞬で半径2kmをふっ飛ばし、100人近くぶっ殺した施設がやって来るんですから、
地元はたまったもんじゃなかったでしょう。
今みたいに原子力利権とかもない時代ですからね。
地元にとっちゃ、家に居座るチンピラみたいなもんだったに違いありません。
鶉野とか広畑みたいな工場だったら、雇用やら何やらで地元を潤す要素あるんでしょうが、
ここは倉庫ですからね。
有刺鉄線が張り巡らされて、地元の人も中に入れなかったってんですから、
地元愛などは期待出来ません。
早く、行かねば消えてなくなる!?
と勇んで駆けて行きましたよ。
5年前に(また、このパターン)。
5年前に来た時は、 ホントに消えてなくなったと思ってました。 だって、播但線の引き込み線が あったはずの場所には、 大きな道路が通って跡形すら微塵もないし、 |
|
駅があった場所は、 こんな場所に客が来るのか本気で聞いてみたい 寂れた(失礼)家具屋さんになってました。 まあ、どことなく 昭和独特のダメダメレトロ感は漂いますが、 戦中仕様とはさすがに言えないような気が。 まあ、もちろん当時物 ではないんですけどね。 |
|
かろうじて、無駄に一段高いコンクリ塀が、 もしかしたら駅のホーム? と妄想を掻き立てる程度です。 こんなホームの高さじゃ、汽車から降りるとき、 ご老人なら命がけ、 子供なら怖気づきそうなぐらい、 飛び降りなきゃいけませんが。 そもそもここは倉庫だったんで、 荷降ろしですらデンジャラスなこの低さは、 当時物の可能性はなさそう。 |
|
もちろん、何もないワケじゃありません。 福崎町史によると、弾薬庫は、 厚さ30センチのコンクリート壁に三方を囲まれ、 正面だけは鉄製扉、屋根にいたっては瓦葺きという 「安全性?何それ?」 的なお粗末なものだったみたいで、 戦後、占領軍のポール中尉を筆頭に 9人を吹き飛ばす事故を起こしてます。 半径2km壊滅の枚方と比べりゃ可愛いもんですが、 それでも地元民を中心に9人も死んだとなれば大事故。 ←こんな立派な慰霊碑まで立てて、 霊を弔ってるんです。 と言っても、この碑でさえ、 ここに畜産センターを作る際、 無理矢理にもとあった場所から移動させてるんですが。 |
|
元々は終戦2年後の 昭和22年に進駐軍から町に返却され、 10年ぐらい野ざらしになってました。 もちろん、この広大な土地を放っておくわけにもいかず、 最初、ゴルフ場を建てようと計画してたそうです。 福崎町の財政難であえなく頓挫しましたが。 まあ、助かりました。 鶉野も、自衛隊と神戸大学のダブルパンチで 原型を止めたみたいに、その地に何が建つかは、 戦跡が残る為の超重要なポイント。 その後で来たのが、丸紅。 3年をかけてここに 巨大な養鶏場を作ったそうです。 |
|
鶉野でも養鶏場がありますが、 広い土地が適度にあって、 付近にあんまり住人もいない (何せ有刺鉄線の中でしたから) となると、この手の施設は作りやすいです。 社長が首を吊ったぐらいしか 地元の姫路でさえ印象の薄い アサダエッグの工場なんかの近くに行くと、 山とか行き慣れてる穴居人でさえ悶絶しそうな 獣臭が漂いますが、 ここはもう一枚上手だったようです。 わずか7年後の昭和45年。 ハエと悪臭にたまりかねた地元住人によって、 養鶏場は撤退させられました・・・・。 地元住民には申し訳ないですが、 もうちょっと頑張って欲しかった。 空いた土地に来たのが、 遺跡キラー、工業団地だったからですよ。 これで、高橋の弾薬庫の運命が決まりました。 全滅です。 いや、かろうじて←みたいな堤防跡とか、 |
|
人気のない場所に、 撤去する方が面倒くさそうだから位の どーでもいい理由できっと残された裏門やらの、 か細い痕跡しか工業団地の威力の前では 生き残れなかったんです。 まあ、何せトラックは入るは、 工作機械は入るはで、 地盤から固めにゃならんので、 造成の凄まじさは他の追随を許しません。 文字通り地形を変える程ですからね。 |
|
せめて、表札でも残ってくれていれば・・・・ まあ、堂々と 姫路出張所と書いてあったハズなので、 福崎人としては複雑でしょうが、 これでは当時物かわかる術もありませんぜ。 |
|
反対側はこんなカンジ。 多分金属製だった門を 土台ごと毟り取ったみたいになってます。 これも門を残しておいてくれればまだ・・・・ そんな絶望を味わったんですよ。 5年前に。 鶉野で肥えた戦跡愛好心は、 この程度じゃ満たされなかったんです。 うっかり記事を上げ忘れる程に。 それなのに、また5年ぶりに何故、来たのか? |
|
そこに穴があると思ったから。 実はまだ手付かずの山の中に、 防空壕があるらしいのです。 それに5年ぶりに来たのは もうひとつ大きな理由があります。 ここ、数回の鉱山探しで穴居人、 昔は探し出せなかった穴が、 ふいに探し出せるようになってきたんですよ! 一般生活には何の恩恵もない能力ですが、 穴場の姫路の管理人としては必須能力です! それが今頃、開眼してきたんですよ!! 例えば、何の変哲もないように思える ←の雑木林、よく探してみてください。 怪しいもんが見えてます・・・ |
|
ほら、ありました。 正解は左下あたりですね。 え?わからない? ほら、全体的に凹んで見えませんか? 穴居人が病んでるのかも知れませんが、 ともかく5年前は影も形も確認出来なかった 防空壕に辿り着きましたぜ! |
|
中は埋まって原型を止めていませんが、 探していたものに間違いありません。 高橋の弾薬庫がこの地にやってきたのは、 まだ太平洋戦争に差し掛かるちょっと前でした。 陸軍は、空爆によるインフラ破壊を恐れるあまり、 新幹線を蒸気機関車で通そうとした (発電所が爆破されると走れないから) イカレタ連中ですが、播磨の内陸まで攻撃されるとは カケラも考えてませんでした。 そのおかげで、武器を作る貴重な弾薬を 瓦葺きの倉庫で保管してたワケですが、 昭和20年、そんな悠長な事を言ってられない 抜き差しならない状況が迫ってました。 日本の主要都市が根こそぎ空爆に晒されたんです。 姫路も例外じゃありません。 もちろん、ここもターゲットになる・・・ 危機感を募らせた陸軍のお歴々が 導き出した作戦は、 強固な要塞とか、対空砲の配置などではなく、 「とにかく、穴に隠せ」 でした・・・ |
|
そう、ここの防空壕は特殊で、 人用でも工場用でもなく、 倉庫の中身用だったわけです。 さて地元住民の暖かい視線が気になったので、 話しかけてみたところ、 「小さい頃に遊んだわ、まだあるかな」 と言うことなんで、指差してくれた方に行きます。 だって、もうアリアリとしてますやん! え?見えない? ←ほら、右中央付近・・・・! |
|
近くによると、こんなカンジ。 ホントにあるのか?って? 藪を少しかき分ければ・・・ |
|
今度のはデカイ!! しかも埋まり方がまだ浅い・・・!!! 手元の資料によれば、 洞窟式の防空壕が42箇所も作られ、 高さ2メートル、 幅3メートル、 奥行きが10〜30m 動員された兵の数でも 1000人はくだらないという かなり大規模な防空壕作りでしたからね。 |
|
粘土質の岩盤で 70年近く耐えてくれていた事に感謝! それにしても、ホント面白いように 見つかります!! これなら、本番も期待出来そうです! |
|
実は、防空壕のほとんどは この高橋で作られたワケではないんです。 いや、この通り作ってましたよ。 運びこむ大量の爆薬もこの地にあるので、 わざわざ遠くへ運ぶのは手間ですからね。 でも挫折しました。 その理由がアリアリと残ってます。 ←この防空壕の突き当りが答え。 実はこの高橋、 上辺は粘土質で良かったんですが、 奥の岩盤は意外と強固で、 手掘りの時代にゃ、 不可能に近かったワケです。 というわけで、1000人の穴掘り隊は、 近場のやりやすそうな場所で、 新たに掘り始めました。 その場所は市川町! 一応、となり町ですね。 もちろん、行きますよ。 今の穴居人を持ってすれば、 いとも易易と見つかることでしょう!! 乞うご期待! |