姫路競馬場公園
(ひろみねやまのはいばす)
場所・姫路市白国

どう考えても幽霊より、
しっかり足のついた市民の方が怖い姫路

数ある心霊スポットの中でも、最も有名な物件。
それが今回ご紹介する広峰山ドライブウェイの中腹にひっそりとそびえる
通称バス屋敷でございます。

そのひねりのない呼称は、
某武家屋敷(正体はただの牧場跡)に匹敵する安直さながら、
丘の上にバスが鎮座する異様な光景も相まって、伝説的に語り継がれてきました。
姫路人なら一度は怪談話に花を咲かせたことでしょう。

ってか、ジャッキで上げただけじゃね?

なんて発想しか出てこない
ホームページで披露する知識の8割が図書館で仕入れたネタな穴居人には、
踏み入れてはならない、ソッとしとくべきネタでした。

何せ、

「ドライブウェイで事故った車輌がそのまま放置されてる。
その時出た死者がまだバスの中に・・・・」
とかで身震いするより、

「事故車両を山の中腹に上げる労力より、
山を引きづり下ろす方が、きっと楽じゃね?」
って思ってしまいますし、

「物置にしようと持ってきたバスだが、
実は持ち主を次々と死に至らしめる呪いのバスで、
ここの住人も例外じゃなく・・・」
とか、想像を巡らすより先に、


「物置にするだけなら、
苦労して山の中腹にあげる必要がどこにあんのよ?」

とか、夢も希望もないツッコミが自然と頭をもたげてくるんですから。

しかし、興味がなかったといえば、ウソになります。

喜多さんからBBSに、
「一緒に広峰山中腹の廃バスの件を調べませんか?」
と書き込みがあったとき、心躍ったものです。

一体、あの場所、あのバスに何があったのか?

もちろん、図書館には資料があるべくもないので、
現地にて情報収集してみます。


ネットで下調べすると、
バスが撤去されてるとのこと。


もう手遅れなのか?

とりあえず、情報をいただいた
喜多さんへの義理もあるんで、先急いで現地へ。

車輪ぐらいは残っているかも知れませぬ。
こうなりゃ骨ぐらいは拾っておきたいですからね。

広嶺山の中腹。

ありました。バス屋敷。

外観は・・・
昔とさほど変わっていない模様。

車で来ると100%見逃す好立地ですね。
まだ立派におられますやん(一安心)。

確かに山ん中でコレに出会したら、
心霊現象の一つや二つ脳裏をよぎるかも知れません。

・・・昔より大分荒れてるなぁ・・・

数年前に訪れたときにはもっと原型を留めていたんですが。
特に前方は窓ガラスもなくなり、
案内板も破り取られた無惨な姿をさらしてます。

案内板が最大のヒントになるはず予定だったのに。
昔は円教寺と血で血を洗う抗争を繰り広げた
広峰神社のご威光もここまでは届いてなかったようです。

これをやった連中は
素で呪われてくれれば幸いです。


とにかく拾えるだけのヒントは拾ってみます。
まずはバスの正面。

プレートから
神姫バスの払い下げ品とわかります。
さすがに金属製だけあって健在でした。

アホ共は、文明機器に疎いですから、
力ずくで壊せる範囲を超えてたようです。

何より何より。

神姫バスのホームページなどで照らし合わせると、
神姫バスがこの正面にロゴがついた
デザインの車を採用しているのは、
1960年以降。

バスは少なくとも、それ以降に置かれたことが分かります。
って言っても50年も範囲があるんですけどね。

中を覗いてみると、
入り口にkinsan coachのプレートが。

聞いたことのないブランドですが、
相変わらずのネットで調べると
日野自動車製とのこと。

大体、製造されたのが、
1960年〜1967年ぐらいが妥当な線のようです。

ってこのヒント、
1960年以降ってのが証明されただけで、
50年の開きは解消されてないんじゃ・・・。
気を取り直してさらに散策。
バスの周りには、大したものはなかったですが・・・

隣の廃屋。

同じように、アホ共に荒らされてる室内で
年代特定出来そうなブツが二つ残されていました。
手元のiPhoneでは、さすがに調べるのが難しいですが。
 
冷蔵庫 サンヨー製 SR-120MDB
ガス湯沸かし器(LP) パロマ製 PH-8C
 
検索すること30分・・・。

この家電の古さから導き出される推定年代は・・・・

1956年以降!

範囲拡がってんじゃん!

さあ、さらに、ドツボに嵌ってきましたぜ!!

廃屋の中で拾える情報はそれぐらい。
年代物のストーブなんかがありますが、
調べるだけ年代を遡りそうだったので、割愛。

戦前とかになりかねませんからね。

というわけで、他に唯一ヒントがありそうな
横にあるお墓を失礼ながら覗かせてもらうことに。

一番新しい没年が、昭和57年

此処の住人だとすると、
1960年〜1982年の間にバスが
置かれたと考えてもいいんですが。

そうすると一気に22年。
絞れてきましたよ(?)

ってか・・・んん?
前までは気にしていませんでしたが、
この墓の後ろに道が続いている!?

結構しっかりとした山道です。
しかも踏み跡がかなりある。

ちゃんとした登山コースと言うことなのか?

ん・・まだ何かありますよ!
信仰の山ではお馴染みの、
今何丁目ってヤツじゃないですか!

立派!
しかも新しく立て直してたりします。

道路側にも設置してあるのは知ってましたが、
こんな山ん中にもあるとは。

上段にはこんな粋な彫り物も。

急げや、コラ!
こんな中途半端なトコで立ち往生すんな!
ってことなんでしょうか?


”香車”と”と”の組み合わせに深い意味があるのかは、
興味津々ですが、

ともかく年代をみてみると
何と江戸時代


どういうことだ?
昔からここに道があったってことか??
道には古ぼけたナイスな風体の電信柱も。
震度5が来たら、ポキといきそうですが、
大丈夫ですかね?

それに書いてある内容によると、
此処は、坂梨ヶ谷というルートなようで、
制定されたのが昭和40年!?

1965年ですね!!!

理想的な年代です。
この電柱がこの場所に電気が引かれたのと
同時だと仮定すると、家が建てられたのはその辺り!

するとバスの置かれた時期は、
1965年〜1982年の間。

つまり15年!!

こりゃ、ちょっとずつ確信に
近づいてきたんじゃないですかね!!
そうこうしている内に行き止まり。

見覚えのある道路が見えてきましたぜ!

これが思っている通りの場所だとすると、
この道の正体がはっきりしてきます。

広峰神社へとまっすぐあがる登山道。
道路ができるまでの巡礼道だったようです。

やっぱり!
石見ブラック遺産の筆頭前頭、
ハイランドビラ姫路じゃないですか!!

正確には悪名高き年金保養施設だったので、
一概に、石見のオッサンだけのせいじゃないんですが・・

ともかく広峰ドライブウェイ建設の折から、
セットで考えられていたでしょうから、
主犯の一人と言って過言じゃないでしょう。

こっちの話はあらぬ方向へ込み入ってしまうので、
また後日。

って!
見えてきた気がしますよ!

広峰ドライブウェイ!!
道がなけりゃ、
バスをあげることも出来ませんもんね!!

そこから逆算していけば、
自ずと答えは出るんじゃないでしょうか!!

広峰山ドライブウェイが全面開通したのは、
昭和53年(1978年)

なら、バスが設置されたのが
1978年〜1982年の間と考えられるから・・・

つまり4年の間に絞られてきたわけです!!
でもそうなると気になる点が一つ。
廃屋の中にある湯沸かし器などは、
1960年代の品。

1978年より前?

道路が出来るよりも前にあの家を建てた?
とすると、道楽で住んでいたとは思えません。
仕事・・・?

今までのヒントを総合すると・・・!

整いました!(古い)

答えが出た気がします。
元々、廃屋のある場所は広峰神社に至る
最も大きくて重要な登山道でした。

何せ、下界から神社を繋ぐ最短ルートですからね。

そこで家の主は、
広峰神社に参拝する登山客を相手に、
休憩所を経営していたのではないでしょうか?

当時の資料がないのでハッキリしませんが、
1階が解放スペースになっている
特異な構造にも納得がいきます。

だけどドライブウェイが完成したおかげで
駐車場もない休憩所に必要性がなくなり
廃業に追い込まれたんだと思います。

立地的に彼処に寄る必然性はまったくないですから。
心霊スポットになっている廃バスがある現在でさえ、
見過ごす人が続出している、
客商売として致命的な立地といえましょう。

まあ、そこで店を住居として利用しようとした結果、
一つ大きな問題が・・・
家が狭いすぎる・・・

そりゃ1階部分が全部、吹き抜けですからね。
続き間が2部屋じゃ、どうにも暮らせない。

そこで居住スペースを確保するために、
バスを置いた!
山の上での建て増しは、
結構骨のある作業ですからね。

まず整地から始めないといけませんから。

でも払い下げられたバスなら、
ジャッキであげるだけ!

逆に安くつく可能性も高いし、
居住性も悪くありません。

今となっては見る影もないですが、
当時は防寒も機能していたでしょうし。

いやあ、懸命に調べ上げた甲斐がありました。
こんなに綺麗な推理が整うなんて、
思ってもみなかったですが、

やり遂げた感がありますなぁ。


まあ、その推理、まったくの的はずれなんですがね。


意気揚々と調べた結果を、
喜多さんに眠る前の毛利小五郎みたく自信満々にメールしました。

そしたら、喜多さんは教えてくれたのです。
広峰の廃バス、広峰御殿の真実を。

結構、泣ける内容なので刮目ください。


「さて、広嶺山の家屋とバスのルーツですが、名義人はAさんなんです。

彼は若干18歳にして南方へと出兵し、戦火を潜り抜け、その一年後、姫路へ帰ってきました。

敗戦国になった日本を見て、彼は強いショックを受けましたが、直ぐに立ち直り、裸一貫で頑張る決意をしたそうです。

それからは、昼夜問わず働き詰めて、28歳で結婚、その後も妻と共に必死で働き
30歳の時から始めた、焼きアナゴ業も年々業績が上がり、そして二人の子宝にも恵まれ
Aさん夫婦にとって充実した日々が続きました。

そんなAさんが、40代になり子供達も大きくなり始めた頃、生活にもゆとりが出てきました。

その頃に、Aさんの脳裏に忘れかけた夢が蘇ってきました。

「子供の頃から、私を育んでくれた広嶺山に家を建てたい」というものでした。

その晩に、早速妻に相談すると妻も快く賛成してくれました。 

それから、2年後の昭和43年にA邸が完成しました。当時、山の斜面に鉄骨の建築物は
珍しく地元では、広嶺御殿と呼ばれかなり有名だったそうです。

それからもAさんの事業は順調に進んで行き、更に10年が
経ちました。

この頃になると、Aさんのもう一つの夢・・・大好きなバスをコレクションしたい!と言う事でした。

Aさんの一番希望は、自身が幼少の頃に乗った、木炭バスでしたが流石に残っている車体は無く、
木炭バスを購入することは叶いませんでした。

ある日、少々落ち込みながら日々を過ごすAさんに朗報が舞い込みます。

引退する神姫バスの車両買取の話でした。

早速、その引退車両を見に行ったAさんは、ひと目見た瞬間から購入を決意し、その意思を伝えました。

そう、あの家屋の横に設置されている、あのバスです。

因みに設置には、当時関西で、2社しか所持していない大型ジャッキを持つ尼崎の建設会社に依頼し、無事設置しました。

Aさんは庭に置いているバスを眺めては幸せなひと時を過ごし充実していました。

それから数年して、名古屋で会社員をしていた長男家族が、焼きアナゴの会社を継ぐために姫路へ帰ってきました。

もちろん目の中に入れても痛くない程の大切な孫を連れて!

長男家族は広嶺山の近くに住んでいましたが
休みの度にAさんの所にやって来ます。

孫とAさんはあのバスに乗ってはしゃいでいます。そのうち、孫の友達が、
一人づつ増えていき、孫が、小学3年生になる頃、放課後には、
15〜20人程の子供達がAさんのバス目当て(おやつも)にやって来るようになりました。

Aさんは、「バスおじさん」「バスおっちゃん」等のニックネームで呼ばれ、顔をくしゃくしゃにして喜んでいました。

孫がバスに興味を示さなくなってからでも、近所の子供達が、Aさんの所へ遊びに来ていました。

本当に子供好きなAさんの側には、いつも子供達が慕い、あのバスの中には、笑い声が絶えませんでした。

そんな日々が、数年続きましたが、桜が舞い散る昭和62年4月の朝、Aさんは、少しの頭痛を訴えたまま、帰らぬ人となりました。

決して苦しむ事無く逝ってしまったそうです。 それから数年が過ぎた頃、Aさんの妻が老齢のために足腰が悪くなりました。

その状況を見て、長男、次男共に母との同居には、喜んで手を挙げた
そうですが、
さすがに広嶺の住宅に住むのには、兄弟共に難色を示しました。

結局、長男家族と新在家の豪邸で同居しました。

それ以降20数年、あの場所で、笑い声が響く事無く、時が流れました。

ただあの場所には、現在の廃れたイメージから程遠い
沢山の愛情が溢れた場所だった事を、ここで強調しておきます。」

ええ話や・・・
心が荒んでいる穴居人には思いつきもしなかった
ハートフル・ストーリーがあったのです。
誰が休憩所経営やねん。

喜多さん、貴重なお話ありがとうございました!

まあ、姫路にはまだまだ
がワンサカあります。
桜山の防空壕とか、自衛隊基地に埋もれた血染めのかちん染め伝説などなど。

挑戦してみるのも一興です。

穴場スコア
「パー」クラス


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撮影:2011.05 by 穴居人