(けいふくじやま)
場所・姫路市景福寺前
姫路城は難攻不落なハズでした。
戦国時代、大がかりな攻城戦装備(攻城槌など)を持たない攻手にとって、
大規模な城壁や城掘を持つ城はほとんど突破不可能なものでした。
なにせ基本戦術が人海戦術ですから。
だからこそ、一見勝機の欠片もないように思える籠城戦が各地で繰り返され、
戦術としてまかりとおってしまう始末。
三木城の凄惨な兵糧攻めや、大阪夏の陣などを見れば、
当時の城攻めがいかに難しかったかわかるってもんです。
豪壮な大阪城はともかく、掘と土塁で構成された簡素な三木城攻めに、
あの秀吉が1年8ヶ月もかけたんですからね。
一説によると大阪城に張り合って建造されたとも言われる、
巨大な城郭姫路城は、85万石という途方もない規模の領地を有する中心地として、
当時、まだまだ不穏な空気を隠し持っていた西への牽制として、
難攻不落なハズでした。
幕末。
鳥羽伏見の戦いでボロ負けして江戸へ敗走する将軍に殿様が随行するなど、バリバリの佐幕派だった姫路藩。
慶応4年1月14日、難攻不落なハズの姫路城はたった3発の砲撃によって、無血開城するハメに。
砲撃を行った勤王派、岡山藩兵1500人はこの景福寺山と男山から、景気よく城に向けて砲弾をブッ放したそうです。
立地を知っている地元の方ならご存じでしょうが、景福寺山と男山なんて、
姫路城を最も狙いやすい(500メートル前後・・・目を瞑っても当たる)場所に布陣を許すあたり、
姫路藩の体たらくを感じざるを得ませんが・・・
しかもたった1500人の戦力。
この人数にどういう事情があったのか資料もないのでわかりませんが、
姫路城ほどの城を攻めるのに、たったそれだけの人数で出陣したナメッぷりもどうかと思います。
まあ、全然問題なく勝ったわけですけど。
時代の変化についていけなかった姫路城。
近代的な大砲を装備した勤皇派にとって巨大な城郭施設などは大きな的に過ぎず、防御力は皆無。
太平洋戦争の時など、あの天守に高射砲台が備え付けてあったらしいですが、攻撃目標としては、ほぼ無視。
今の戦争、制空権を奪われた時点で負けはほぼ確定ですけど、
それでも徹底抗戦する気なら下手に目立つ城よりも、ペンタゴンや松本大本営やジャブローのごとく
地味な地下施設にするのが吉ですよね。
余談ですが、姫路城を陥落させた岡山藩の指揮官は池田章政で、
姫路城を築いた池田家の子孫だったそうです。
祖先の築いた難攻不落の城をその子孫がなんなく墜とすってのは
なかなか皮肉と言っても面白い運命ですね。
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さて景福寺山の西南麓、その名前の由来にもなった景福寺(曹洞宗)です。 歴代姫路城主の奥さん達のお墓です。 |
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景福寺山の別名、嵐山(らんざん)は山にあった城に由来します。 何でも赤松満佑が勢い余って将軍を殺しちゃった、 播磨随一の大事件「嘉吉の乱」の起こる少し前まで 地元の豪族が簡素な城を築いていたんだとか。 ただ、規模はたいしたことはなかったようで、当時守護代だった赤松に、 「お前の言うことは聞けねえよ」 と啖呵きった割に、一戦も交えずに城主は大人しく追放され、 あえなく廃城になっちゃいました。 |
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別名を持つ山は珍しくありませんが、 この山は節操のなさが一つのキーポイント。 景福寺山が他に持つ別名は、 西岸寺山。(その頃、麓に西岸寺があったから) 孝顕寺山。(その頃、麓に孝顕寺があったから) 単純ですね。 そしてもちろん今は麓に景福寺があるから景福寺山。 山名だけじゃなく住所も麓の寺に合わせて コロコロ変わっていたっていうから、 住民はたまったもんじゃなかったでしょう。 こんな理由で頻繁に住所が変わるところは姫路でも珍しいそうです。 ちなみに増位山随願寺が別所長治に攻められて、 この山に避難していた時にも、 この山は増位山と呼ばれたりしてます。 |
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さて境内ですが、どうもカメラを振り回しにくいなぁ・・・と思ったら、 敷地内に幼稚園があるからなんですね。 風体がいかにも怪しいのか、視線が痛い。 ところでこの景福寺。 明治11年には旧制姫路中学校の前身となる 六郡組合立姫路中学校が一時期、 ここにあったりと本格的な学校だったときもあります。 他にもしばらくの間、飾磨県の庁舎になったり、 青島攻略戦の際の捕虜収容所になったり、 意外と多方面で利用されてますけど、姫路城砲撃の際に、 岡山藩が本陣に使用したのは船場本徳寺。 何が気に入らなかったんでしょう? 収容人数? 捕虜収容所の時は少なくとも150人は押し込まれていたのに・・・ え?10分の1だって? 船場本徳寺にいた捕虜の数だって160人で精一杯だったんですが・・・ |
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景福寺山は身も蓋もない話ですけど、ほぼ全山、墓地です。 面積にすると7割は墓地です。 江戸時代から続く古い墓地だけあって、 無縁墳墓がかなりの数にのぼっています。 景福寺に回収されている墓石でさえこの有様。 平成18年4月に実地調査を開始し無縁仏を確定して、 改葬対象墳墓に規定するそうですが、無理もないです。 何故かと言うと、一度でも山中に足を踏み入れた途端に その異様な雰囲気に瞬時に理解出来ます。 |
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山中。 ものすごく荒れてます。 今更、手の施しようがあるのか正直疑問なくらい荒れてます。 地盤が崩れたのか、半分近くの墓石は傾いてしまい、 その内、半分は倒壊している有様。 初代、青野ヶ原捕虜収容所の所長のお墓や、 姫路藩の武士達や江戸時代の豪商のお墓など、 みんな一緒に見境無く荒れてます。 ここまでくるとちゃんと整理出来るのか心配になります。 昔は土葬だった時期もあるのに、地盤が剥き出しになってると、 より一層、不気味です。 |
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景福寺山の山頂付近には、立派な姫路城城主松平明矩の霊廟が。 ってここも荒れてる・・・・ 地震でもあったのかも知れません。 広峰山にある酒井氏のお墓と較べると、雲泥の差。 同じ城主であっちとこっち、これだけ後世に差がついてりゃ、 まさに明暗別れたってカンジですね。 ただでさえ、松平の家系は姫路では影が薄いのに・・・・ |
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滅多に見られない景福寺山の西側です。 誰も来ないし、誰も注目しないしね。 眼下に住宅街と名古山霊園が広がる風光明媚な場所で、意外と穴場。 墓地を抜けてこないと来れないのが玉に瑕ですけどね。 付近の配水施設(?)には誰かが住んだ跡が・・・ 昔から小説とかには出てきましたけど、やっぱりいるんですね。 墓地に住める奇特な人が。 |
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正直、このお墓から眺める姫路城は、他の山々と較べても最上級です。 立地的にも景観的にも、ここから観る姫路城は一見の価値有り。 たとえ墓地の中にあろうとも、素直にオススメ出来る穴場スポットです。 わざわざ、姫路城が見えるように伐採され、手入れされてるのもポイント。 こちらの比較的新しいお墓の縁者の方かな?と想像を巡らせてみたり。 それでもこまめには手入れされていることがわかります。 何せ、隣のお墓は草ぼうぼうですから。 |
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墓地から反対側の景福寺山公園に降りようとすると、 もはや道とは言えない、雑木林を抜けるハメに。 とはいえ、これ以外に道はありません。 途中、藪の中に無数のお地蔵さんが埋もれているのが散見出来ますが、 ここではもう見慣れた光景なので、感慨はあまりありません。 いつか整備されることを心から祈ってます。 |
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さて姫路城十景の一つ、 景福寺山公園の姫路城が一望出来るスポットです。 ですが正直な話、高低差のある分、 墓地からの眺めにはてんで見劣りします。 男山と較べれば、「ふ〜ん、そう」程度の眺めなので、 訪れる人は近所の散歩のおじさんぐらいですね。 春になれば密かに桜が咲き誇ります。 まあ、桜の木を見上げる瞳に写るのは、 その真上にシルエットで浮かぶ墓石ですが。 ちなみに多分、桜の木の下には・・・ というのはきっと迷信です。 そうに決まってます。 |
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最後は辻井バイパスに面した景福寺山公園の入り口です。 景福寺とは山を挟んでまったく逆側になり、 景福寺山の入り口と言えば、 こちら側しかしらない人も多いハズ。 (そりゃ逆側は何を言っても墓地ですから) 数年前までホテルロ○ドン跡地が付近にあり、 気味悪がられていた影響か、人影は少ないです。 追記:姫路城の名誉のために一言。 岡山藩による姫路城砲撃戦は、 「姫路市史」にも記述がある通り、 早々と降伏してきた姫路藩と、 それでも戦端を開くことを要求する勤皇諸藩との、 板挟みになった岡山藩が姫路藩と共謀してでっち上げた いわゆる「やらせ」であったというのが 周知の事実のようです。 そりゃ、姫路城ほどの規模の城を大砲3発では落とせんわな。 とまあ、つまりは最初の紹介文は、 まったくの誇張と言って差し支えないんですけど、 よくよく考えたら、戦端を開くことを要求した勤皇諸藩は、 攻め落とす気、満々やったんやなと思うと背筋に寒くなりますね。 徹底抗戦した会津若松城の惨状を考えれば、 ちょっと位の不名誉は、結果オーライてことで。 |