土器坂合戦
(かわらけざかがっせん)
場所・姫路市下手野

TONIGHT WE DINE IN HELL!!

精鋭300人を率いて、圧倒的な数の敵に挑む。

このネタを姫路でもう一度書くとは思ってみませんでした。
鶏足寺の時もそうでしたけど、織田くんが播磨攻略にお猿さんに預けた兵数でさえ、
2万人と言われているのに、播磨のこのショボさ。

そりゃペルシャ軍は300万人とか言われてますけど、実際は10万人以下じゃないの?とか、
対するスパルタ軍も5000人はいただろ、と言われてますが、細かい事はいいんです。
例え3000でも、300にとっちゃ圧倒的であることは変わりありません。

「戦いは数だぜ!兄貴!!」

と肩にトゲのついた近寄りがたいツラした28歳が申しておりましたが、まさにその通りです。

考えても見てください。

サッカーでレッドカード一枚出るだけで、
セルジオ越後がこの世の終わりみたいな呪詛を吐き始める(主に味方に)
ことからも分かるでしょう。

戦争という究極のスポーツ(左寄りの人に怒られそう)において、数は最も重要なファクターなんです。
サッカーのルールを無視して例えれば、

3トップや4トップなんてケチくさい事言わず、
ミッドフィルダーが5000人ぐらい振り分けられたら、
「どこからシュートしても入るwww」って
ウハウハな状況(敵にとっては絶望)になりますし、

ディフェンダーが5000人もいれば、ゴールまでたどり着けんのとコッチが心配になり、

ゴールキーパーが5000人ぐらいいたら、もうゴールに蹴り込まれる気もしません

押し寄せる赤松軍3000人に対して、黒田官兵衛に与えられた軍は300人

永禄12年(1569年)5月

兵力差10倍の状況で官兵衛が布陣するのは、
テルモピュライと同じく、街道沿いの谷間

死闘、青山の戦いは始まります。

そもそもの発端は、
赤松家の内輪もめでした。

嘉吉の乱で滅びた
赤松家をガチガチ武力で再興したバーバリアン
赤松政則が、死んだところから始まります。

間が悪い事に4歳の庶子だけを残して・・・

正室に子供がいなかったので
彼が後を継ぐのは必至なのですが、
再興したばかりの生え抜きの軍事国家では、
宝くじ的棚ボタで、
当主になる事は許されませんでした。

だって、戦えないじゃん。

いくら大選手の息子でも使い物にならなきゃ、
重宝はできないって事です。
カツノリみたいなもんだと思ってください。

※※※

さあ、一応、レポートもしますよ。
今回の舞台の一つ、
土器山(かわらけやま)に登ります。
目の前にあるのが船越神社。

総コンクリの建物と踏切のコントラストは
昔から大好物でした。

これぞ昭和!という香りに満ちてます。

さて赤松復活に尽力した
重臣達は、もう一人の子供(女の子)に、
娘婿をとらせるという方法で解決します。

世継ぎ選定に影響した方が、
その後何かとやりやすい思惑もありきで。


ぶっちゃけ、そっちが重要です。

黒田くんのご主人様、小寺氏もその一人。
他にも浦上氏別所氏などもこの謀議に加わりました。

最早、播磨は彼らの手の内という訳です。

※※※

正直、この場所の名前で混乱する人も多いでしょう。
今回ここは土器山と呼ばれてますが、
建ってる神社は船越神社
でも山の名前は秩父山(ちちぶやま)なんです。

しかも船越山も隣にある無秩序っぷり。

もうホントは昔、
水尾山って言われてたとオチまでつけたら、
収拾がつけれません。
(じゃあ、すんなよ)
もちろん、そうなると面白くないのは、
庶子の周りの人々(赤松分家としておきます)。

その遺恨はまあいろいろあるんですが、
彼らの孫の代、
本家の力が笑えるぐらいに弱体化した
戦国時代になってついに爆発します。

周りの反対を出し抜いて、
織田くん達と仲良くなっちゃうのです。


当時、あたり構わずケンカを吹っかけていた
織田ヤンキー軍団と共謀するということは、
やる気満々ということ。

浦上氏と小寺氏、赤松本家に挟まれ、
身動きが取れなかった赤松分家は、
虎の威を借り、反撃に出ます。

まあ、当時としては悪くない選択ですが、
狡さは際立ちます。


※※※

どうです?
このコンクリートむき出しの雰囲気。
他の神社がこんなんばっかやったら、ゲンナリしますが、
ここだけだと風情があって、申し分ないんですよね。

昭和51年と比較的新しいんで、地元の皆様、
この状態キープでお願いします。

もちろん、その矛先は小寺くんに。

何故って?
当時、まだ浦上氏は力を持ってますからね。
それに同じく織田ヤンキー軍団に魂を売った
別所氏との挟み撃ちも可能と至れり尽くせり。

さて、まずは共謀通り、
織田方の武将が背後の庄山城を陥とし、
小寺氏の本拠地であった”御着城”を
「いつでも攻めれますよ」と射程に収めます。

こうなったらコッチのもの。
そして、自分は悠々と大軍(でも3000)
を持って、龍野を出ました。

向かうは決戦の地、そうココ、
土器山(かわらけやま)です。

※※※

←ってありえないですね。
まさかの社殿に落書き。

内容が中1の中間テストまでレベル
微笑ましいですが、
どうにかして欲しいもんです。

5年ぐらい放置されてますが。
とまあ、言ってみたものの、
当時ココが決戦の場になるとは
誰も思っていなかったんじゃないでしょうか?

当の黒田くん本人も。

ここからは憶測なのですが、
黒田官兵衛をダーティーな視点から見てると、
当時の状況が少し透けて見える気がします。

※※※

定番の絵馬も紹介。

まず他の追随を許さないウマヘタ風。
後ろの風景の写実性と違って、
人間の棒立ちっぷりはどうなんだ?

大好物です
そもそも、何故、
300人で戦わなければならなかったか?


穴居人の中では大いに疑問でした。
そんな小兵力を配置するより、
もっと多勢を動員できたのでは?

東から迫る裏切り者別所氏(元親戚)への
備えに人員を割いた?

しかし、その当時は人員を
割くどころではなかったと思われます。

何せ北には3000人どころか、
生野銀山を平らげた
秀吉の軍勢が2万人いるので、

こいつが降りてくれば、
小寺氏に残された道は籠城しかなくなるからです。

まぁ、服従もありますが(禁句)。


実際に青山の戦い当時、
青山の倍以上の戦力を持って、親父さんは
北へ睨みをきかせに行ってます。

※※※

海軍水兵長の書いた短歌!?

戦争絵馬はないものの珍しいものもあり。
吉永美保って男の名前に、
どうやってもならないんですが・・・
八方塞がりやん。

だから小寺氏.は土器山に
戦力を振り分けなかったんです。

正直、3000人ぐらいもうどうでも良かったんです。
東と北からもっとシャレに
ならない奴ら
が来てたもんで。

黒田くん以外は。

黒田くんは策士でした。
きっとあのイングレッサの御曹司(ホモ)のように、
常に戦後の事を考えていたに違いありません。

※※※

戦前との歴史観で最も大きく違うのは、
戦争の捉え方じゃなく、
南北朝の扱いじゃないでしょうか?

ここの絵馬に書かれてる菊池武光なんて、
調べるまで知りませんでしたよ。

九州限定の武将がこんなとこで絵馬になる、
ものすごいギャップを感じます。

このまま順当にいけば、
ご主人様の小寺くんは織田ヤンキー軍団に
クチャッと潰されてしまう。

だけどそのとき、御着城が陥落したとしても、
姫路城が健在なら黒田くんが生き残る術もある。

だが本拠地、御着城がダメになっても、
姫路城が助かる方法。

それは一つしかないんですよ。

西から攻め上がる敵を、
やっつけること!
(北と東の相手は、
どうせ小寺くんが滅ぼされてからだから)

※※※

これをいつから貼り続けてたんでしょ?
これを作って貼る前に、落書きを消しましょう。

あれこそ、
「ダメなものはだめ」でしょう。

例え、I'm Dream Loveでも。
だから黒田くんは城内に残った
数少ない戦力をかき集めて、
御着城籠城戦には参加せず、
土器山で迎え撃つ事を決意したんです。

全ては保身の為に。

いやぁ、300人で10倍の敵に向かうといや、
悲壮感半端ないですが、
レオニダス王に較べたら、何と小狡いことでしょう。

可哀想なのは、
思い立った黒田官兵衛よりこんな無茶な展開に、
付き従う部下たちです(確信)。

※※※

さあ、陣地となったとされる土器山へ登っていきます。
金毘羅宮を抜けると・・・
ってな訳で、
決死隊300人は、
当主の無茶ぶりにもめげず、
死地にやってきました。

皇国の守護者
サーベルタイガー部隊みたいな気分です。

幸いだったのは、
根暗でよく爪を噛んでいる(注:イメージ)
当主が思いの外、有能だったって事にあります。

ま、ここまで追い詰められることが
政治的に無能って事でもあるんですが。

※※※

陣地跡へ向かう矢印に導かれて登り始めると、
恐ろしく登りやすい山道が。

低木ばかりなので、地元民がその気になれば
観光の為に即、ハゲ山に出来そうです。
見晴らしええやろなぁ(ゲス)。
ともかく、
端から奇襲一本に絞っていたはずです。
まともにやり合って敵うハズはありません。

そこはイジメられっ子(想像)らしく、
よく承知していました。

土器山はその昔、赤松くんが元気やった時期に、
秩父というオッサンが城を築いた場所。

だから築城しなくても
物見櫓などはすでにあったと思われます。

でも今回、ココには布陣しなかった
に違いありません。


※※※

一番、旧戦場が確認できる場所ですが・・・

思ったほど、見晴らしがねえ・・・
こりゃ、頂上に期待か?

と思いきや、ここが一番の見晴らし。
まあ、神社から頂上まで2分で、
辿り着ける低山なので、こんなもんか。
でも、合戦陣地跡って書いてあるやん・・・

それがこの戦いのややこしいところです。
何せこの後、6月
もう一回ここで同じような戦い
をしているからです。
その時にはとある事情
ここに陣を張ったに違いありません。

ただ今回は奇襲せにゃならんので、
ココに陣を張るのはいただけません。

何せ、ここ、
夢前川を渡河する敵軍に
丸見えだからです。


奇襲どころか、
蹂躙されます。

正々堂々するつもりはさらさらない黒田くんは、
きっとココを空にしていたハズです。

「ほら、誰もいませんよ」

ってな感じで、意地の悪い囮にしたに
違いありません。
じゃあ、どこで
陣を張ったのか?

という訳で山を降りてきました。
籠城戦でもないのに、
城に敵を招き入れて戦う必要は0。

厭らしい黒田くんならば、この山間、
つまり土器山の麓、
名付けるなら土器坂
敵を待ち伏せたはずです。

渡河を終えて、敵が休んでるその隙に
と言っても、
いくら300人でも歩いて2分で登れる低山にゃ、
隠れるスペースもないので、

ってか丸見えなので、

十中八九、反対側、
鬢櫛山(びんぐしやま)の麓に
布陣していたと思われます。

日本のエーゲ海を目指して建設された
姫路の黒歴史の一つ、
びんぐし山荘の裏手の山です。

土器山とは、土器坂をはさんで反対側。
標高は土器山の倍以上なので、
夢前川からは隠れて見えない好立地。

さあ、潜伏した黒田くん。
さすが人の弱点見透かす天才。
その思惑はドンピシャでした。

呑気に渡河してくる赤松軍。

鬢櫛山の斥候からもよく見えたはず。
何せ←この眺めですからね。

「イヒヒヒ、馬鹿め!
目に物見せちゃるわ!!」


テンションあげてく黒田くん。

やるしかないとはいえ、
黒田くんほど
ネガティブシンキングな人にゃ、
敵がアホなくらい油断してくれなきゃ、
踏み切れなかったかもしれません。

それぐらい、赤松軍はここでの戦いを
想定していなかったんでしょう。

これ以上に奇襲に向いてる
シュチュエーションはないんだから、

勝って当たり前でした。


しかし、
いじめられっ子の黒田くんは、
”うまく行き過ぎる”とどうなるかを、
わかっていませんでした。

イジメは追い詰める手前で、
真綿で首を締めるぐらいにやらないと、
事件になっちゃうんですよ(不謹慎)。

慣れないことはするもんじゃないです。

←ここ土器坂で
完璧な奇襲を、
完璧なタイミングで、
完璧な布陣でやり遂げた黒田くんを前に、
赤松軍は驚いて、撤退してしまうのです。

「クソッタレぇぇぇ!!!」
(心の叫び)


え?300人で3000人を撤退させたんだから、
大勝利じゃん?

違います。撤退されたということは、
黒田くんには痛恨でした。

ココは鏖殺しにしなきゃ、
意味がなかったんですから。

戦術で勝って戦略で負けるというヤツです。

ここで撤退を許し、敵に戦力を残すという事は、
敵に土器坂での戦闘を備えさせるという事です。

つまり敵に、黒田は
ここで防ぐ必要がある
と伝えるようなものです。

体制を整えて今度、渡河する際は、
臨戦態勢でやってきます。

ま、至極当然ですね。
かといって、追撃する戦力もない・・・。

黒田くんのことだから、
周りに八つ当たりしまくった事でしょう。


さて、これがホントの袋小路です。
一ヶ月後、やる気満々漲った
赤松軍が帰ってくれば・・・

いやぁ、はは、
テルモピュライより悲劇じみてきましたね。
笑える意味で。

※※※

余談ですが、このお話、
創作メルヘンの大河ドラマでは
まず採用されません。

何故かって?
鬢櫛山には←こんなモンが建ってるからですよ。
イタズラでもされたら、たまんないですからね。
(ニッコリ)

穴場スコア「ダブルボギー」クラス

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撮影:2013.12 by 穴居人